via free-photo.net
私は宮城県の沿岸部に住んでいます。海までは歩いて10分もかからないほど。
夏場、窓を開けて夜寝ていると、波の音が聞こえてくる近さです。
これを人に言うと、いいねー、うらやましいとよく言われたものです、あの日までは…。
11年前の東日本大震災時、自宅駐車場まで津波が到来し、私の勤務していた会社は流され、夫の車も津波をかぶってダメになってしまいましたが、自分と家族の命、自宅は無事でした。
その時の経験談を、この場をお借りしてお話させていただきます。
夏場、窓を開けて夜寝ていると、波の音が聞こえてくる近さです。
これを人に言うと、いいねー、うらやましいとよく言われたものです、あの日までは…。
11年前の東日本大震災時、自宅駐車場まで津波が到来し、私の勤務していた会社は流され、夫の車も津波をかぶってダメになってしまいましたが、自分と家族の命、自宅は無事でした。
その時の経験談を、この場をお借りしてお話させていただきます。
この記事をご覧になっている方が何かを感じ、少しでも防災のお役に立てれば幸いです。
当時の家族は、夫、子供二人、そして私の母親です。
子どもは男の子二人(大学生、中学生)、母は病気をきっかけに引き取り、同居をし始めて2年目くらいだったかと思います。
子どもは男の子二人(大学生、中学生)、母は病気をきっかけに引き取り、同居をし始めて2年目くらいだったかと思います。
2011.3.11という日
2011年3月11日、金曜日。
私はいつもなら金曜日は出勤なのですが、たまたまこの日は年度末の調整で休みを取っていました。
これが私にとって、とてもラッキーなことでした。
私はいつもなら金曜日は出勤なのですが、たまたまこの日は年度末の調整で休みを取っていました。
これが私にとって、とてもラッキーなことでした。
当時、子どもは中学生と大学生。中学生の次男は、午前授業でお昼過ぎに自宅に帰ってきていました。
夫は仕事で会社、大学生の長男は学校に行っていて、地震時、自宅にいたのは、私と中学生の息子、母、そして猫一匹です。
忘れもしない、あの時のこと。
私と次男は少し遅めの昼食をとり、私はリビングでこたつに入りながらのんびり、ひとりテレビを見ていた時に、あの揺れが始まりました。
私と次男は少し遅めの昼食をとり、私はリビングでこたつに入りながらのんびり、ひとりテレビを見ていた時に、あの揺れが始まりました。
今までに経験したことのない恐怖
私は生まれも育ちも仙台で、幼いころには宮城県沖地震も経験しており、地震慣れしているというか、震度4くらいまでは特に慌てるということはありません。
ほとんどの震度も当たりますし、震源地が近いか遠いかまで区別できるほどです。
これは宮城県に長く住んでいる人たちのあるあるではないかと思います。
しかしそんな私でも、この時ばかりは尋常ではない揺れで、かなりパニックになり恐怖を感じました。
家が潰れてしまうのではないか、この世の終わりが来たかと真剣に思いました。
手も足も震え動けなくなり、腰が抜けるということはああいうことなんでしょうね。
ほとんどの震度も当たりますし、震源地が近いか遠いかまで区別できるほどです。
これは宮城県に長く住んでいる人たちのあるあるではないかと思います。
しかしそんな私でも、この時ばかりは尋常ではない揺れで、かなりパニックになり恐怖を感じました。
家が潰れてしまうのではないか、この世の終わりが来たかと真剣に思いました。
手も足も震え動けなくなり、腰が抜けるということはああいうことなんでしょうね。
家は海が近いので、大きな地震が来たら高台に逃げるということは、常日ごろからずっと意識の中にありました。
でも実際、地震で本当に逃げるという行動を起こしたのはこの時が初めてです。
とにかく高台に避難しなければと、母と次男に声をかけ、台所にあったペットボトルの水1本とパンを持ち車に乗り込みました。
でも実際、地震で本当に逃げるという行動を起こしたのはこの時が初めてです。
とにかく高台に避難しなければと、母と次男に声をかけ、台所にあったペットボトルの水1本とパンを持ち車に乗り込みました。
※筆者撮影